はじめに
「さかのぼり日本史② 昭和 とめられなかった戦争」を読んだので、その概要をまとめておきます。前回の記事①
はこちらです。
歴史年表
最後に、太平洋戦争終戦までの流れを掴んでおきたいと思います。
- 1941年12月8日 真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦
- 1942年6月5日 ミッドウェー海戦
- 1943年2月 ガダルカナル撤退
- 1943年9月30日 絶対国防圏の閣議決定
- 1944年7月9日 サイパン陥落
- 1945年3月10日 東京大空襲
ミッドウェー海戦(1942年6月5〜7日)
ミッドウェー島の攻略を巡る日米の海戦で、日本側は主力空母4隻が沈没し大敗を喫しました。勝利したアメリカ軍も空母1隻と駆逐艦1隻を撃沈され航空機約150機を失っています。この海戦の後、連合艦隊は積極攻勢主義を取ることができなくなっていきます。
絶対国防圏の閣議決定(1943年9月30日)
この頃になると太平洋各地域での戦況の悪化は明らかなものとなっていました。戦況悪化による危機感から大本営が戦略を建て直し、「今後取るべき戦争指導の大綱」の中で「絶対国防圏」を設定しました。絶対確保すべき要域として、千島、小笠原、内南洋、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを圏域として定めました。戦線を縮小し、圏内の防備を強固なものとしようとしたのです。
サイパン陥落(1944年7月9日)
マリアナ諸島に含まれるサイパン島は絶対国防圏の圏内に属する要域で、戦略上最重要となる地点です。当時マリアナ諸島は日本の領土でした。そこから北上していくと、硫黄島、小笠原諸島、伊豆諸島が一直線に連なり、そしてその先に東京があるという非常に重要な拠点でした。
1944年春、サイパン島守備隊の大増強が行われました。陸海軍の統合軍を作り、44,000人の大部隊で上陸してくる敵を水際で撃滅するという作戦を立てました。44年6月にはアメリカ軍の上陸作戦が開始するのですが、艦砲射撃の圧倒的な火力の支援を受けた上陸作戦であり、防御陣地は壊滅された状態となっていきます。そして1944年7月9日、アメリカ軍はサイパン島の占領を宣言し、日本はサイパン島を失いました。続く8月にはグアム、テニアン島の守備隊も全滅し、ここに日本はマリアナ諸島を失うこととなりました。
このサイパン陥落はすなわち、絶対国防圏の崩壊を意味します。特にサイパンはB29による本土空襲の可能性が飛躍的に高まってしまう距離にある諸島であったため、サイパン陥落の衝撃は非常に大きかったと思われます。陥落からわずか9日後に東条英機首相は退陣に追い込まれています。