「さかのぼり日本史② 昭和 とめられなかった戦争」を読んだので、その概要をまとめておきます。
歴史年表
ここでは太平洋戦争海戦直前までの流れをまとめました。
1930年代
満州事変(1931年)
日本は日露戦争(1904〜1905)におけるポーツマス条約によって、満蒙(満州と内蒙古)における各種権益をロシアから譲渡されていました。中国の土地をロシアと日本で分け合うという帝国主義的な行為ですが、そのような行為がいまだ可能であった第一次世界大戦前の時代のことです。
中国にも満蒙を認めさせるために対華二十一か条の要求の一つとして、「南満州及び東部内蒙古に関する条約」を日中間で締結しました。しかし1930年代に入り、中国の反日民族運動が激しくなってくると、満蒙における日本の権益が脅かされるようになってきます。満蒙権益とはそもそも日露戦争によって獲得したもので、たった25年前のことであり日露戦争を通じて日本国民の多くが当事者意識を持っていました。そのため世論のコンセンサスとして「満蒙問題に関しては武力行使を容認する」という意識が高まってきていたのです。
しかし、満州事変の軍事的な側面の本当の意義はこれとは異なります。満州事変の首謀者である石原莞爾(いしわらかんじ)は自らが提唱する「世界最後の戦争」に向けた軍事戦略の検知から満蒙という領地が必要であると考えていたのです。いずれ日本はソ連と戦うこととなるが、それらに備える基地として満蒙を中国国民政府から分離しておき、また資源獲得基地として領有する必要があることを構想していました。国民には真の理由を伏せたまま、関東軍は満州事変を引き起こしたのです。
ちなみにですが、事変とは当事国が宣戦布告して行う戦争以外の紛争・衝突の事態を意味するものです。そのため満州事変は単なる事件ではなく、関東軍が自らきっかけを作り中国軍への攻撃を開始した立派な武力衝突です。
北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍の武力衝突が起こりました。これにより日中戦争が始まっていくわけですが、当初近衛文麿内閣は不拡大・早期解決の方針を取り、現地での協定でことを収めるつもりでした。しかし陸軍省内の突き上げ、中国中央軍の北上などにより、政府は派兵を閣議決定してきます。
ここから中国側・日本側の戦闘は過激化していき、近衛文麿内閣は8月15日に不拡大方針の放棄を決定します。また「支那事変」へと改称し、中国との全面対決へと踏み込んでいきます。
南京事件(1937年12月)
日中戦争(支那事変)の開始から4ヶ月後の12月には、日本は当時中国の首都であった南京を占領します。このときに日本軍は非戦闘員を含む多数の中国人を虐殺する南京事件を引き起こしています。この事実は当時の日本国民には知らされていないのですが、南京陥落という事実はメディアが大々的に報道しました。国民や前線の兵士は、南京が陥落すればこの戦争も集結すると考えていたのですが実際にはそうではありませんでした。
近衛声明(1938年1月16日)
この当時日本は連戦連勝、南京を占領したからと言って簡単に講話に持ち込むべきではないという風潮が強かったようです。実は南京陥落後に蒋介石はいったんは和平交渉に応じる姿勢を見せたのですが、日本側の一方的な条件に交渉は頓挫します。そして
帝国政府は爾後国民政府を対手とせず。
という近衛声明を出します。近衛内閣が今少し妥協的であれば、このタイミングで講和条約が成立していたかもしれないのですが、日本側から完全に外交による戦争終結の可能性を閉ざすこととなりました。あとは軍事的に屈服を強いるしかないという、泥沼化を引き起こすこととなっていきます。
「新東亜秩序」の構想(1938年11月)
日中戦争は互いに宣戦布告せずに戦闘状態に入った "戦争" であるため、正確には「事変」という扱いになります(実態は戦争)。これは正式に戦争状態に入るとアメリカなどとの経済関係が断ち切られてしまうからで、両国にとってデメリットであったため宣戦布告せずに戦闘状態に入っていたのでした。
しかし戦争状態であれば交戦国に認められる各種権利が認められないという事実が、ここにきて戦況をさらに泥沼化させる一因になります。宣戦布告していれば国際法によって外国からの支援物資などの封鎖を行うことができ、軍需品などの提供を差し押さえることができるのです。しかし、それができないという現状のまま、日中戦争は持久戦となっていきました。
このように長期化する戦争に対して政府が
帝国の冀求するところは東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に存す。
という意味付けを行います。国民に対して、自らに対して、この長期化する戦争は「新東亜秩序」の建設のためである。そのように後追いの理論として、このような構想が発表されるのでした。
ドイツがポーランド侵攻を開始し、これに対してポーランドと同名を結んでいたイギリス・フランスがドイツに宣戦布告をしました。こうしてヨーロッパを戦場として第二次世界大戦が勃発しました。
当初日本は「大戦不介入」を宣言し、中立な立場を取っていました。しかし各地でドイツが大勝利をおさめると、これを好機と捉えドイツとの連携を強化すべきであるという機運が高まっていきます。
1940年代
北部仏印進駐(1940年9月23日)
1937年に勃発した日中戦争は、ソ連からの軍事援助、米・英からの物資援助をうけ、中国は徹底抗戦の体制を整えていたことで泥沼化していきました。そして戦争開始から3年後の1940年に、第2次近衛内閣は「南進」を決定します。この南進政策で、中国への支援の遮断、資源の確保を目的として北部仏印(フランス領インドシナ)に進駐します *1。
当時1940年6月にはフランス・パリがドイツ軍に占領されており、土率の傀儡政権であるヴィシー政権が成立していました。日本とドイツは防共協定を結んでいたため、仏印当局の了承のもとに仏印に進駐することができたのです。
アメリカはこれに反発し、北部仏印進駐直後の9月26日には日本への輸出禁輸品目を増やしていきます。
日中交渉の開始(1941年4月)
日本はアメリカとの戦争を回避すべく、日米交渉を開始させました。しかし、日本軍の中国からの撤退問題などを巡って交渉は難航していきます。アメリカとしても国力の差から、強く出れば挑んでくることはないだろうと考えていたこともあります。
南部仏印進駐(1941年7月)
1941年6月22日に、ドイツ軍が突如としてソ連に侵攻しました。これに乗じてソ連を攻撃してしまおうという「北進論」と、その対抗策として「南進論」とが政府内で議論されていきました。こうして北進論・南進論がせめぎ合う中で「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」で
帝国は依然支那事変処理に邁進し、且ジゾン自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め、又情勢の推移に応じ北方問題を解決す
という方針を決定します。これにしたがい、70万人の兵力を対ソ戦に備えて満州に集結させ、次いで7月28日には南部仏印進駐を開始してきます。
南部仏印進駐に関しては当時陸軍部では、南部仏印進駐といってもフランス領内の移動に過ぎないため(既に仏印進駐は行っていたことも鑑み)、アメリカが何らかの強い報復措置に出ることはありえないだろうと考えていました。しかし実際は違ったのです。アメリカは南部仏印進駐に対して、在米日本資産の凍結、対日石油輸出の禁止を断行し、イギリス・中国・オランダと協力して、日本に対する経済封鎖(ABCD包囲陣)を行っていきます。